【家族のための庭】

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素敵に気軽に贅沢な時間にする庭を提案いたします。

庭師のアップデート

皆様は「庭師」と聞いてどんな姿を想像しますか?
私は、文化財庭園などで庭を管理している人や、難しそうな庭を造っている人を想像します。
色々な姿を想像されるかもしれませんが、その多くは、庭を造り管理する人ではないでしょうか。
西洋庭園を造る人も庭師として表現しますが、この記事では勝手に日本庭園に限定させていただきます。

庭師の造る庭とは、禅的な何か難しいことを表現した庭、芸術を追求した庭、伝統文化を継承した庭などがあるでしょう。庭師は、庭を造る人として高度に洗練されたことで、仕事の幅が狭くなってしまっています。庭師をアップデートするとすれば、ここら辺の凝り固まった部分を解きほぐしてやることがいいのではないでしょうか。

旧来の庭師における限界とは、日本庭園=芸術作品の構図に囚われすぎていることです。
普通の暮らしをしている人にとって、芸術品って必要でしょうか?
貴重な土地とお金をつぎ込んでも欲しい物でしょうか?
芸術は、高尚で貴重なものかもしれませんが、生きるために必要なものではありません。
むしろ、無くても一切困りません。
ピカソを所有していないから不幸な人生ですね!と言われても困りますよね。
文化財クラスの芸術としての庭が自宅にあったとしても、住んでいる人が幸福であるかと問われれば全く別の問題です。
芸術としての日本庭園を全否定しているわけではなく、芸術を楽しむ余裕のある人に向け更なる研鑽し最高到達点を更新すべく活動を重ねていただきたいと思います。ですが、それ以外にもやらなければならない事があることがあります。

「社会や人の幸福に貢献できる日本庭園文化の創造」

日本庭園は、昭和の時代には庶民から憧れの存在として君臨した庭園文化であり、王者の地位にありました。ですが、芸術性にこだわることにより、ごく限られた人のみの支持しか得られない状況まで衰退しています。従来の日本庭園を成立させていた前提条件が崩壊している現代において、日本庭園の存在意義を0から構築しなければなりません。人々に必要とされる存在=有用な存在であり、庭師=芸術家ではなく、庭師→社会課題を解決する人といった具合に存在をアップデートしなければなりません。庭師の存在意義をもう一度見直すべき時代であり、日本庭園という存在が社会に対してどのような新たな価値を提供できるのかについて、今一度考え直す時期に来ています。

日本庭園のトップランナーを庭師と呼ぶのであれば、日本庭園をアップデートさせることができる人を庭師と呼ぶべきです。

日本庭園文化が育んできた技術や文化を、現代そして未来に向けてどう活用するのかといった視点が持つことは、これからの時代において必須の条件です。新しい社会を思い描いて、その実現する手段として日本庭園を活用する、または、新たに創造するぐらいスケール感のある人材が必要です。破壊的イノベーションを起こせる人材です。枠を守るのではなく、枠を壊し新しい枠を作れる人材です。革新を進める人材が、庭師としてトップに立たなければならない時代が来たんです。

造園業界の人と話していると、ガーデニングブームが終われば再び日本庭園が流行する時代が来るから頑張ろう!という何の根拠もない励ましをする場面に遭遇することがあります。庭師のアップデートという、漠然としたテーマで記事を書きましたが、そういった漠然とした希望観測をぶっ壊さなければならないと、自分勝手な使命感で書いています。待っているだけで勝利者の椅子に座ることはできません。ガーデニングブームの後釜を狙う業界は多数います。個人住宅であれば、エクステリア業界が圧倒的なシェアを掴んでいます。公共空間であれば、ランドスケープや他の業界のデザイナーなどが主導的な立場にあり、商業施設などでも敗北し続けています。回ってくると思っていた椅子は、すでに他の業界に奪われています。そんな危機感から説教臭い記事を書きましたが、反省はしていません。もっと手を変え品を変え、様々な角度から書いていこうかと思いますので、今後しばらくこんな感じの説教臭い記事が上がってくるかと思いますが、お付き合いお願いいたします。
いつの日か、同業者から「俺は、○○の社会課題を解決するための庭を造ってるんだよね~。」と自慢される時代が来ることを願ってます。

もしよければ、皆様のご意見もお伺いできると嬉しいです。色々な人の意見をお伺いできると、考え方をアップデートさせることができますので、ビシバシご意見ください!

雑木の庭
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